福岡大ワンダーフォーゲル部ヒグマ襲撃事件は、1970年(昭和45年)7月25日から29日にかけて静内町(現・新ひだか町静内高見)の日高山脈カムイエクウチカウシ山で発生した獣害事件である。この事件で3名の犠牲者を出した。
概要
福岡大学ワンダーフォーゲル同好会所属の学生A(リーダー20歳)、B(サブリーダー22歳)、C(19歳)、D(19歳)、E(18歳)の5人が、芽室岳からペテガリ岳へ日高山脈を縦走する途中のカムイエクウチカウシ山でヒグマに襲われた事件。
事件の経緯
5人は1970年(昭和45年)7月12日9時に列車で博多駅を出発し、14日に新得駅へ到着した。14時半に芽室岳へ入山し縦走を開始していた。
遭遇
同月25日16時30分頃、九の沢カールでテントを張っていたところAがヒグマを発見した。クマは5人に近づき、テントの外にあったザックをあさり始めた。クマの隙をついてザックをテントの中に入れ、焚き火やラジオの音量を上げるといった対応をしたところ、クマは30分ほどして立ち去った。
同日21時頃にクマがテント付近へ再出現し、テントに穴を開けて立ち去って行った。
執着
翌26日4時半頃、クマが再び出現、テントの中へ入り込もうとした。眠っていた5人がそれに気づき、テントの中から引っ張り合いとなった。5分ほど引っ張り合った結果、5人は40~50m離れて避難し、クマがテント内を荒らす様子を伺った。クマが去った後、テントやザックは回収した。
同日16時半頃にクマが再びテントへ近づいてきたため、5人は離れて様子を伺うことにした。1時間半ほど経ってもクマがテントを離れないため、5人はテントを放棄し山を下ることにした。
Eを襲撃
同日16時半すぎ、山を下っている途中に最後尾を歩いていたBの10mほど後ろにクマが出現した。全員で駆け下り、Bが横に逸れたところクマはEをターゲットに定めた。Eは「畜生」と叫び、身を隠していたハイ松から飛び出し、山を駆け下りた。しかしEは背後からヒグマに襲われ死亡した。また、この際にCが他のメンバーとはぐれた。
Aを襲撃
A、B、Dの3人は安全と思われる岩塊堆積地で一晩を過ごした。同月27日8時頃より下山を開始し、Eの無事を祈りつつCの名前を呼び続けた。一度応答はあったものの、姿を現すことはなかった。その途中、Aの下方2,3m先にクマが出現した。3人は身を伏せたが、Aのみは立ち上がりクマに追われながら下方へ走り去った。この際にB、Dが急いで下山、13時頃に五ノ沢の砂防ダム工事現場へ到着し自動車の手配を頼んだ。18時頃には麓の中札内駐在所へ到着した。なお、Aはクマに襲撃され死亡した。
Cを襲撃
仲間とはぐれたCは、鳥取大学グループが残したテントを発見し身を潜めていた。27日8時頃までは日記がつけられていたことが確認されている。日記には、5mほど先にクマがいてテントから出られないと記載されている。その後クマに襲われ死亡した。
駆除
無事に麓へ到着したB、Dの報告により、28日に救助隊が編隊された。翌29日に救助へ向かったハンター達はA、Eの遺体を発見した。30日にはCの遺体も発見された。3人はいずれも逃げている最中に後ろから臀部を攻撃されいた。
29日16時半頃、八の沢カール周辺でクマを発見、ハンター10人の一斉射撃により射殺された。体長131cm、2歳6ヵ月の雌だった。そのヒグマは人間を食べておらず、悪戯するかのようにいたぶっていただけであったことが判明している。
事件後
ヒグマを仕留めたハンターたちは「山のしきたり」によりこの肉を食した。その後は剥製にされ、中札内村の日高山脈山岳センターに展示されている。
ワンダーフォーゲル部とは
日本語では「渡り鳥」が語源で、これは19世紀後半にドイツで高校生や大学生の青年らが中心となって行われた野外活動が始まりと言われている。山野を徒歩旅行し、自然の中で自主的生活を営みつつ、心身を鍛練し、語りあうことを目的とする青年活動の一つのことをいう。ワンダーフォーゲルは略して「ワンゲル」とも呼ばれている。
参考サイト
A=竹末一敏(経済学部3年)
B=滝俊二(法学部3年)
C=興梠盛男(工学部2年)
D=西井義春(法学部1年)
E=河原吉孝(経済学部1年)
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